【珍書:其の10 『うどんそば 化物大江山』】
2004-12-30
本日は大晦日にピッタリの「珍書」を紹介。(1日早いけど)
年末、大晦日に必要なものといえば、
年々規模が縮小している「紅白歌合戦」と、 書き終わらない年賀状。
そして、なんと言っても「年越しそば」です。
『うどんそば 化物大江山(ばけものおおえやま)』(恋川春町作・画/安永五年(1776年))。
大江山と言えば、源頼光が坂田金時ら四天王と共に、大江山の酒呑童子を討伐したという、有名な鬼退治話。
この話に、当時の江戸の世風…うどんと蕎麦の人気の勢力争いをコラボしたのが、この『化物大江山』です。
さすが江戸時代の黄表紙です。やってくれることが、おバカすぎてたまりません。
ストーリーを見ていくと…
<頃は蕎麦がきの院の御宇かとよ、洛中によなよな出て、往来の者の銭をうばう変化あり。
よって時の武将、源のそば粉、是をきこしめし、憎き変化の仕方かなとて、
四天王の者を召し、しかじかとのたまいければ、四天王随一、渡辺の陳皮進み出て、
「何じょう事の候はん。それがし、参り退治せん」と。
我が君より賜る所の千札を携え、ならびに、君の御博士の来金道が打ったる蕎麦切り包丁を申し受けて、
洛中さして出ゆきける。
摂津の守、源のそば粉。
碓井の大根。卜部(うらべ)のかつお節。
渡辺の陳皮。坂田のとうがらし。…>
(漢字変換、句読点は12v電源が勝手につけています)
蕎麦がき院の治世の世に、夜な夜な強盗を働く輩がいる。
そこで源のそば粉(源頼光)は、自らの四天王、碓井の大根(碓井貞光)、卜部のかつお節(卜部季武)、渡辺の陳皮(渡辺綱)、坂田のとうがらし(坂田金時)を呼びつけるのであった…。
※ちなみに「陳皮」はミカンの皮を干した薬味のことです。(当時は蕎麦に、大根おろしや陳皮を入れ食べていたみたいですな)
そしてとうとう、洛中を騒がせる「うどん童子」を退治するよう、帝から命令が下る。
<摂政ひぼかは、宣旨を申しわたさる。(イラストの説明)大納言そうめん卿。
さても源のそば粉は、大勢にては悪しかりなんと、四天王もろともに山伏の姿となり、
笈の内へは、包丁、打板、すりこぎ、ワサビおろし、その他の蕎麦切り道具を仕込み、
とんだ山へと分け登るに、岩をそびえて山ふかく、
まことに食の参道ともいつつべき程の難所なれども、蔓にすがり、藤にすがりて分けゆきける。
とんだ山のほとりにて、一人の老翁現れて曰く、
「そも、とんだ山のうどん童子は、一通りの変化にあらず。ある時は干しうどんとなり、またある時は焼き餅となり、変化極まりなし。ここに我が持ちたる麺棒は、浅草の市にて買いたる樫の麺棒なり。これを以て五人して打つならば、例えいかなるうどん童子なりとも、いかで伸びずと言うことやあらん。ゆめゆめ疑うことなかれ。我こそは、汝の念ずる所の、八もん大菩薩なり」
と、掻き消して失せにけり。>
帝の命を受けた源そば粉一行は、山伏姿に身をやつし、荷物の中に包丁、蕎麦打ち板、すりこぎ、ワサビおろしなどの武器を隠し、うどん童子がいる山へと向かう。
途中、謎の老人が現れ、彼等にこう言う。
「うどん童子は、並大抵の化け物じゃないぞ。ある時は干しうどんになり、またある時は焼き餅となるんじゃ。ここにワシが持っているのは、浅草で買った樫の木の麺棒じゃ。これをお前さんらに授けよう。これで打てば、例えうどん童子と言えども、伸びないはずがない。……疑ってはいかんぞ。実はワシは、菩薩の化身なんじゃ」
と、言うが早いか、老人は姿を消してしまった。
菩薩の加護を受けた五人は、無事、うどん童子の住処へ辿り着く。
五人はうどん童子に酒を飲ませ、ズブズブに酔ったところを、例の麺棒でよってたかってリン(ry)叩きのめす。
これにはさすがのうどん童子も弱り果て、とうとう降参してしまうのであった。
そして、『化物大江山』はこう結ぶ。
<されば蕎麦切りは、心のままにうどんを従え、一天に名を広めける。
さるによって、江戸八百八町にも、蕎麦屋と呼ぶ、その数挙げて数えがたけれども、
うどん屋と呼ぶは万が一なり。
いわゆる、
瓢たん屋ソバ、かうじ町四丁目
雑し屋ソバ、鬼子母神門前
同所、やぶのソバ
洲さきのソバ、深川弁才町
道光庵のソバ、浅草称往院寺中
上に記す所の他に、正直ソバ、蒸しソバなんど、尋ぬるに暇あらず。
ここに千とせやと名付けたるは、名をいく末をことぶくのみ。>
上方はうどん、江戸はソバ。その原型が垣間見えるのであります。
ちなみに「年越しソバ」は江戸中期頃からの風習みたいですな。
<年越しソバの起源>
12時を越して食べるのは縁起が悪いそうなので、『紅白歌合戦』がやってる内に食べ終わっちゃって下さい。
ちなみに、私は蕎麦もうどんも好きです。どうでも良い話ですが。
皆々様方、良い年越しを。
テキスト:『古典文庫第264 黄表紙集1』(水野稔・古典文庫刊・昭和44年)