【珍書:其の18 チョンマゲ・ミーツ・エレファント。『象志』『象のみつぎ』『舶来絵象紙』】

2005年6月16日


 最近、直立するレッサーパンダが大人気ですね。
 だけど、同じ「立つ」なら、エリマキトカゲの方が面白いと思いますが。
……いや、だって、立つだけじゃなくて、ヤツは走るんですよ?
 そういう問題じゃないですか、そうですか。

 さて。無理矢理、話を本題に繋げます。
 このように、今も昔も愛嬌のある珍獣は人々の人気者です。
 今回ご紹介するのは、日本にゾウがやって来た時の記録本です。
 当時は空前のゾウ旋風が吹き荒れていたようなので、他にも色々と資料が残っているかもしれませんが、私が実際手に取って確認できたゾウの本は、以下の3つの資料です。

『象志』享保14年(1729)刊)
『象のみつぎ』(中村平五(三近子)/享保14年(1729)刊)
『舶来絵象紙』仮名垣魯文文久2(1862)年刊)

 『象志』と『象のみつぎ』で書かれているのは、享保13年に来日した象です。

将軍に献上されたゾウ

 1728年(享保13年)、オスメス2頭の象が徳川家8代将軍徳川吉宗に献上するために、広南(ベトナム)から連れてこられた。
 牝は上陸地の長崎にて死亡したが、牡ゾウは長崎から江戸に向かい、途中、京都では中御門天皇の上覧があった。
 上覧には官位が必要なため、牡ゾウには象広南従四位白象の官位が与えられている。江戸では徳川吉宗江戸城大広間から象を見たという。
 その後、象は浜御殿にて飼育されていたが、飼料代がかかり過ぎるため、1741年(寛保元年)、中野村の源助という農民に払い下げられたが、翌年病死した。
 現在も馴象之枯骨(じゅんぞうのここつ)として、中野宝仙寺に牙の一部が遺されている。

出展:wikipedia「ゾウ」


 『象志』の冒頭部分によると、
『象志』
本朝享保十三年戊申六月七日ニ象牝牡二頭南京人持来ル同十九日ニ長崎十善寺唐人旅館ニ入ルゝ是レ南京人、蛮国廣南ニ渡リ此象ヲ求メ来レリ

牡象 七歳 頭長二尺七寸 鼻長三尺三寸 背ノ高サ五尺七寸 胴回一丈 長七尺四寸 尾長三尺三寸 寿命最長 背筋ニ有リ気余無之 人ヲ乗スルニハ前ヘ足ヲ折リテ乗之 五十歳ニシテ筋骨備 逮百歳白象トナル 鐵ノ鈎ヲ以テ駆使 芭蕉ノ葉竹ノ葉ヲ食フ 飲水一■(虫食)二斗計リ鼻ヲ以テ捲テ飲之其ノ行ウコト水陸共ニ馬ヨリモ速シ 水ヲ渉ルニ水底ヲ踏テ行ク

牝象 五歳 頭長二尺五寸 鼻二尺八寸 長五尺計リ 高サ四尺七寸 胴回八尺六寸 此ノ親象ハ七間余リ有チト廣南人之語ルト
此ノ牝象去年長崎ニ於テ斃ルルナリ菓子ノ甘キ物ヲ多ク食フ舌ノ上ニ物ヲ生ス象奴療治スルニ適ハズ長崎ニ豪気ナル者有テ舌ノ上ノ病ヒヲ濯取ルニ象快然トシテ尾ヲ振リ喜ブガ如シ 然レドモ此ニヨツテ遂ニ斃ルゝナリ

(※読みやすいように改行、送り仮名を適宜振っています。あと、語句に不適切なものが含まれていますが、当時の理解ということでご了承下さい)

 牝象はお菓子を食べ過ぎ、舌に出来物ができて死んだとされていますが、悪性腫瘍か何かが出来ていたのかもしれませんね。
 長崎の豪気なオヤジが、舌の上の腫瘍を刮げ取ったという話も面白いです。
 『象志』にはこの後、象の形態や、象の働きぶり、象の生態、象の捕らえ方などマトモなものから、「象の弱点は女の髪で作った綱だ」などという話まで、象に関する情報がギッシリ詰め込まれています。

 学者が書いたゾウ辞典が『象志』なら、同年に発刊された『象のみつぎ』は、読み物としての性格が色濃く出ています。根幹になっているネタはかなり重複しているのに、書き方でここまで違うのかと。
 作者の中村三近子は江戸中期の人物で、子供や女性向きの往来物(簡単な教科書)や字書を多く残しています。
 『象のみつぎ』も女性・子供用に書かれたものです。なので、全体的に柔らかで叙情的、なおかつ説教臭い
 『象のみつぎ』の始まり部分を記載します。上の『象志』と比べてみると、違いがはっきり分かって楽しいです。
『象の貢献(みつぎ)』
此書、児女の合点しやすきため言葉をひらたく書きて、いささかも文をかざらぬなり。
○日本享保十三年。戊申乃六月七日。異国より稚育の象を牽て、長崎十善寺に来り、久しく寺中に置き、翌年己酉の五月、関東に貢献す。時に、とし七歳なり。此象廣南に馴れて、母象の乳味をいまだはなれず。日本に渡す事を聞て、象の母子甚だわかれをかなしみ、涙を流せり。
其時廣南人、日本は神国といひて、■つかうなるくになりといひ含めしかば、親子ともによろこびいさむ事かぎりなし。
別れに臨んて、ふたたびかなしまず。船の乗り場まで母象も送り来たりと。唐人長崎にて語れりと。
此母象長生をたもち、長さ七間半に余れりといふ。象ハ霊獣。仁義の国にきたるといふ事、誠なるかな。

○中華にさへ、象の来ることまれなり。まして日本ハ、万里の雲水を隔てたれば、象をみることためしまれなる事也。
人皇百一代、後小松院。応永十五年に、南蛮国より、真黒なる象を日本へ渡たり。しかれども、此たびのごとき本象にあらず。色の黒き事牛のごとし。これも象の部類にして、■■ハ鼠の部といふがごとし。その時も象の来れる事、めでたき兆にいひ伝えり。応永は年号も三十四年つづきて、三十余年の間、一歳も凶年なく、五穀豊穣なりしとぞ。これ全く象の来る一瑞。今享保十四年。己酉のとしまでに、凡そ三百■三年におよべり。

(※同じく適宜改行、漢字変換しています。翻刻は自信ありません)

 事実を淡々と記述していた『象志』と違い、こちらでは母象と子象の涙の別れまで書かれています。
 別離を悲しむ親子の象に、「日本は神の国らしいぞ」と言い含めると、親子は喜びいさんで、もう悲しむことはなかったとか。
……この胡散臭さが、たまりません。

 その他、面白かったのは、
○南蛮国をはなれて、南印度の地より南方は、みな白象にして生まれ質たり。交跡国群の象なり。甚だ大なり。十歳以上にては、背中たいらにして、タタミ十二畳を敷べし。
南印度のうち、住輦(じゅうれん)国といふ国の象は、背に大なる家をつくりて、大勢の人住居をなし、鈎をもって象を制して、家組ながら山へ乗行、柴薪又は材木を剪て、象に乗せかへる。

『象のみつぎ』より

 空想は果てしなく。
 ガンダーラガンダーラ、愛の国ガンダーラ。They say it was in India.

 それから百年以上後、文久時代にも象は来日しました。その時発刊されたのが仮名垣魯文の『舶来絵象紙』です。

 「草紙」を「象紙」としているところが、いかにも近世っぽくて良いですね。

 ちなみに私の子供時代に流行った「珍獣」と言えば、ウーパールーパー、人面魚なんかがいます。

 思えば遠くに来たもんだ。
 こんな歳にもなって、何やってるんだろうか私は。

……まぁ、面白いから良いか。

<参考リンク先>
中野歴史館〜中野に住んでいた象物語〜
ぞう・はうす「随筆 象の貢の物語」

<その他、見つけたもの>
がくちゃんのの〜みそ「鼻行類」
 鼻行類の模型を作ってらっしゃる方を発見。