【珍書:其の12 『七福神伝記』】

2005-01-15


江戸時代、七福神のメンバーを変えようとした男がいる。

ご存じの通り、七福神
「大黒天・夷・毘沙門天弁才天・福禄寿・寿老人・布袋和尚」の七神を指します。
しかしこの七神に決定するまでに、様々な紆余曲折があったことはあまり知られていません。
(知ってても何の得にもなりゃしませんが)

そもそも「七福神」という考え方は、室町時代後期に始まり、江戸時代後期に今のメンバーに固まります。
室町前期あたりまで個々の福神は、軍神や密教的性格の強いものでした。
それが室町後期頃から徐々に、洒落・滑稽・隠逸風味をもつ「福の神」へと変化してくるのです。

例えば、今は満面笑顔で打ち出の小槌を振るう「大黒さん」。
元はインドの闘神「摩訶迦羅」。信仰の歴史は古く、平安時代の大黒天像が残っています。(古い大黒天像は笑わず、細身)
室町期天台宗の僧・光宗が著した『渓嵐拾葉集』なんかには、大黒天の秘密修法が掲載されています。
「商売繁盛笹持ってこい!」(これはエビスだ)といった庶民的なものではなく、もっとオドロオドロしいものだったのです。

……と、まぁ、
本日は魑魅魍魎が跋扈する中世の話ではなく、ほぼ「七福神」メンバーが決定した近世・江戸後期の話です。
ご紹介する七福神伝記』(元文2年(1737年))は、渡辺某が増穂残口(ますほざんこう)に仮託して執筆した七福神論です。
著者は渡辺某なのですが、内容がほとんど残口の論に拠っていることと、後刷り時(増刷時)に、唯一「渡辺」の文字が入っていた見返しが削られてしまったため、後世『七福神伝記』の作者は増穂残口になってしまったようです。(『国書総目録』も、作者は残口になっているので)


この本が何のために書かれたかと言いますと。
冒頭部分、
<今世に七福神とてもてはやすを見れば、
吉祥天女弁才天女、毘沙門天、大黒、ゑびす、布袋和尚、南極老人これを七福神といふ。
日本七福神傳(※)と題号せし書あり。日本の字を冠せしは、日本のことかとおもへば、
やはり唐やら、天竺やら、日本やら、混雑の七福神なり。
七福神といふうちに和尚もあり、天女もあり、さてさてわけもなき事なり。
日本に福神といはゞ、いづれも勇功の福神にして、福神にあらざる神もなけれども、
わけて七福神を祟まつりて、今日の無事と福をいのり、人々のうへにもその勇功福をあやかり奉るべき七福神
増穂氏その依る所を深く尋し、御神名御神徳のその大抵を爰に出す。>

※「日本七福神伝」…元禄11年(1676)成立。摩訶阿頼耶の撰。仏教視点から書かれた七福神論。
七福神伝記』はこの書に対抗して作られた。

……つまり、
七福神のメンバーに、異国の神や、何かよーわからん和尚まで混じってるやないか。
 日本人なら、日本の神を信仰しやがれゴルァ!
 こんな七福神は断じて許せん。
 ワシ(増穂残口)が、七福神のメンバーを決めたるわい!」
と言っているんですね。

増穂残口は、とにかく血の気の多い神道家として有名で、
街頭や縁日などに出向いては、仏教・儒教や僧侶を罵倒しまくって神道を広めようとしました。
良い悪いはともかく、この「仏法叱り」と呼ばれる残口の話は、民衆に大受けだったそうです。
(もっとパフォーマンス的な右翼の街宣カーみたいなもんでしょうか)
もちろん敵も多く、残口の生存中には何冊もの批判書が出版されています。

で、話を元に戻すと……
残口が決めた七福神は、
大己貴尊、事代主命厳島大明神、天穂日命
高良大明神、鹿島大明神猿田彦大明神
の七名です。
七福神伝記』には、なぜこの七神を選んだのかが、事細かく記されています。

まぁ、結局、この説は広まらなかったんですけどね。

<参考資料>
『改定 史籍集覧 第十册』近藤瓶城・臨川書店
『近世文学 作家と作品』中村幸彦博士還暦記念論文集刊行会・中央公論社
神道大系 論説二十二 増穂残口』神道大系編纂会・神道大系編纂会
『日本思想大系 近世色道論』野間光辰岩波書店
『日本思想大系 近世神道論』平重道校注・岩波書店
『福神』喜田貞吉・宝文館出版・一九七六
『シリーズ日本の信仰 図説七福神戎光祥出版株式会社編集部・戎光祥出版
『月刊しにか 特集・七福神大集合』大修館書店
『節用集大系 第八二巻』大空社