【珍事:其の3 『舞うと死ぬ?採桑老』】
2004-12-19
本日御紹介する「珍」は…
【雅楽・採桑老】です。
これは以前、ビートたけしがやってる『奇跡体験アンビリーバボー』で紹介されたことがあるので、知っている人もいらっしゃると思います。
→『奇跡体験アンビリーバボー』のバックナンバーはこちら(採桑老の回)
『採桑老(さいそうろう)』は、言ってしまえば、「舞うと死ぬ」とされている雅楽なのです。
……とは言っても、このブログは、オカルトやら心霊やら稲川淳二やらとは、ちょっと距離をとりたいので(管理人自身が怖い話苦手なため)、祟りやら呪いやらという話は抜きにして、文献に残る『採桑老』を探り、どうして「舞うと死ぬ」というような伝承が残ったのかを考える足がかりにしたいと思います。
まず、雅楽というのは、1000年以上も前から伝承されている音楽・舞です。
現存する合奏音楽としては世界最古であるらしく、宮内庁式部職の下に儲けられた楽部で、伝統が守られ続けている。
→参考サイト:雅楽
元々、大陸から伝わった雅楽には、音楽だけの「管弦」と舞を伴う「舞楽」が存在します。
今回紹介する「採桑老」は後者、舞楽です。
舞の内容はと言うと、百済の採桑翁(さいそうおう)が老衰して、杖を握りしめ、体を屈して歩く姿をかたどったと言われる。舞台上を、老人がヨタヨタ歩く舞らしい。(そんなの舞になるのだろうか)
『アンビリーバボー』では、不老長寿の薬を求めて彷徨い歩く姿だと言っていたけれど、本で確認することはできませんでした。
→参考サイト:採桑老の口傳
で、まず第一に、
「テレビでやってたけど、本当に、舞うと死ぬって言われてるんかいな?」 という所から調べてみました。
東儀俊美氏(※1)が書いた『雅楽神韻』(邑心文庫・1999)に、
<(現在、伝承されている舞楽は四十曲近くになるが)、誰も教えてもらわない曲が三曲ある。『五節舞(ごせちのまい)』『蘇莫者(そまくしゃ)』『採桑老(さいそうろう)』がそれである>
と書かれてある。
『五節舞』は女の舞なので、男ばかりの雅楽寮では誰も舞わないと。
『蘇莫者』は、<現在は某家の秘曲とされ、一子相伝を守っている唯一の舞となっている。従って、某家の長子以外は誰も教えてもらえない舞というわけである>としている。
そして『採桑老』に関しては、
<この舞は前述の「蘇莫者」以上に全舞曲の中で一際異彩を放っている。面は額に死相が現れているといわれ、蹌踉たる老人の面である。白い装束に鳩杖と薬袋を持ち、介添に助けられながら舞台に登り、歩くようにゆっくり舞うらしいが、この舞にはいつ頃からか「採桑老を舞うと歳を過ずして必ず死ぬ」という言い伝えがある。これが教えてもらえず、又舞われることのめったにない原因らしい。『教訓抄(※2)』によれば多(おおの)家が秘曲として伝承していたが、1100年に多資忠(堀川天皇に雅楽を教えた楽人)が山村正連に殺害されて一度絶えたが、後勅命により秦公貞によって復曲されたとある。近年も一度国立劇場で上演されたが、その舞人は次の年に亡くなっている。あまり演技のよい舞とはいえないようだが、この舞には詠といって舞の途中で唱える漢詩がついている。
三十情方盛 四十気力微 五十至衰老 六十行歩宣
七十杖項栄 八十座魏々 九十得重病 百歳死無疑
これを見ると平均寿命の短かった時代としては、この舞は長寿願望のお目出たい舞だったのかもしれない。ともあれ、一度ジンクスに挑戦して舞ってみたいと思いつつも、面を見ているとその気の失せてくる舞である>
と、結んである。
つまり、「舞うと死ぬ」という伝承は、実際、まことしやかに囁かれているのだ。
※1)東儀俊美…宮内庁式部職楽部元主席楽長。東儀家は元々、四天王寺に所属していた楽家。東儀秀樹との関係はー…わからんです。(多分、どっかで繋がってるんだろうけど)
※2)狛近真(こまのちかざね)が記した、雅楽書。日本最古の総合楽書。1233年成立。
『教訓抄』の「採桑老」の項から、いくつか抜粋してみる。
< 採桑老 中曲 別装束 古楽
唐作『操桑子』。其躰老人、携杖着紫浅袍、微々行。身体如不耐人。>
<多資忠ウタレタリシ時、此曲絶之。以勅定召天王寺舞人秦公貞、近方所被習写也。>
<一説 三十性方静 四十気力靡 五十始衰老
六十行歩倚 七十鬢色白 八十座巍々
残九十百ヲバ不詠。イマ(忌)ウユヘト云。>
…と、「九十と百の歌は、不吉だから歌わない」と書かれてある。
鎌倉初期において、すでに『採桑老』の歌は不吉とされていたのだ。
ちなみに、昭和2年に刊行された『舞楽図説』には、もう少し分かりやすい「採桑老」の説明が掲載されている。
<採桑老…(中略)老人の帽後に笹葉を挿むは桑葉に擬したる者なるべし。鳩杖をつき行歩に堪えざるさまして舞ふといふ。
三十情方盛 四十気力微 五十至衰老 六十行歩宣 七十杖項栄 八十座魏々 九十得重病 百歳死無疑
此詠も微聲に唱ふるよし、但し九十百歳の両句は忌みて歌はざるを、古よりの例とすとかや。>
<採桑老も胡飲酒(こいんじゅ)と同しく、多氏伝家の楽曲なり。
寛弘年間、草合のおり勝負いまだ分たざるに、多好茂、右方勝てりと叫びて落蹲納蘇利(なそり)を舞ひしに、
摂政の大臣道長、奇怪なり其舞人からめよと申さる。好茂驚き舞装のままに馬に打乗り直走りて天王寺に逃れ遂に帰らず。
此時、採桑老を天王寺に伝へたり。其後百年を歴て、曾孫資忠に至り、
康和二年、同僚山村政貫に殺され。二子忠方十六近方十三に猶楽を習はざれば、此伝は絶ゆ。
堀河帝これを惜ませ給ひ、天王寺楽人、秦公貞に命ありて、採桑老を近方へ伝へ返さしむ。
是より胡飲酒と共に、多氏の家舞は再続せられたり。(以下略)>
※句読点は、12v電源が勝手に打ちました。
では、「舞うと死ぬ」という伝承は、一体、いつ頃からできあがってきたのだろうか?
江戸時代の演技記録が記された、『四天王寺舞楽之記』を、ざっと調べていくと…
・貞享2(1685)年1月22日(聖霊会舞楽) 採桑老 兼溢(←人名)
・元禄2(1689)年2月5日(聖徳太子千七十年忌法) 採桑老
・元禄2(1689)年2月22日(聖霊会) 採桑老 兼溢
・元禄13(1700)年2月22日(聖霊会) 採桑老 廣厚・兼佐
・元禄14(1701)年2月22日(聖霊会) 採桑老 廣厚・廣為
・宝永8(1711)年2月22日(聖霊会) 採桑老 廣為・兼佐
・享保3(1718)年2月22日(聖霊会) 採桑老 兼佐・廣国
・享保5(1720)年3月22日(聖霊会) 採桑老 兼佐・廣国
・寛延2(1749)年2月22日(聖霊会) 採桑老 兼陳・廣経
・嘉永2(1849)年4月12日(皇太子千二百三十年御聖忌) 採桑老
※ちなみに、『四天王寺舞楽之記』には索引が無く、当方が原始的な作業(前から順番にピックアップ)で調べただけなんで、途中、見落としている可能性があります。
こうやって見ると、飛び飛びではあるものの、享保以前は、それなりに演じられていたことが分かる。
それが、寛延になると、いきなり100年間の間が空く。
短絡的に考えると、この頃に、もしかすると「舞うと死ぬ」説が広まって定着したのかもしれない。(と、適当な事を言ってみる)
あと、ほとんどが、陰暦2月22日の聖霊会で舞われている事も分かる。
ここら辺も、何故、他の場では舞われなかったのか…謎が残るところではある。
(四天王寺「聖霊会」とは、聖徳太子の命日に行われる法会で、現在は4月22日に行われている。)
ちなみに「採桑老」の老人は、「鳩杖」を持っている。
鳩杖というのは、てっぺんに鳩の作り物がつけられている杖のことを言う。鳩杖の写真
これは元々、高齢になった重臣に「鳩杖」を贈るという、古代中国の伝統が起源である。
日本でも近年まで、宮中では風習が残っていたようだ。→鳩杖の歴史
なぜ「鳩」なのかと言うと、「鳩は噎せない」という言い伝えがあるそうで、「物をのどにつめないように」という意味合いがあるのだそうだ。
…が、「鳩杖」についても、今ひとつ分かっていないのが現状らしい。
古代アジア圏における、老人優待制度の目印だったのでは? という説もあるようです。(鳩杖が、今で言う老人手帳みたいなものだったというような)
とまぁ、ここまで、色々書きましたが…結局、結論は現段階で出せませんでした。
まとめると、
・詩の内容が、元々不吉なものであった
・伝承者が殺されるなど、舞にまつわるいわくが存在した
・江戸時代末期頃から、演技記録が飛んでしまう
・主に、四天王寺「聖霊会」で舞われていた
ネットで調べていると、2002年の四天王寺聖霊会で、採桑老が舞われている事実が発覚。
→詳しくはこちらのサイトで
とりあえず、本日はこの辺りで。
<参考文献>
『雅楽神韻』・東儀俊美・邑心文庫
日本思想大系23『古代中世芸術論』・岩波書店
『新訂 舞楽図説』・大槻如電・六合館
『四天王寺舞楽之記』・南谷美保・清文堂
※2007年11月、実際に『採桑老』を見る機会に恵まれました。
その時の様子は新ブログのこちらで紹介しております。