【珍書:其の14 『大人の伊勢物語【古注】』】

2005-01-30

 いきなり知人が、
「今さ、『伊勢物語』にはまってるんだわ。もう、今年は絶対来るって、在原業平がッ!」
 と、力説している夢を見ました。十中八九、正夢にはならないと思いますし、思いたくもありませんが……。丁度良い機会なので、今回は『伊勢物語』を取り上げてみようと思います。
 実を申しますと『伊勢物語』は、○年前、私が教育実習で担当した思い出深い古典でもあります。

<昔、おとこ、うゐかうぶりして、平城の京、春日の里にしるよしして、狩に往にけり。>
 よく知られた『伊勢物語』の冒頭部分です。<春はあけぼの<(『枕草子』)や>祇園精舍の鐘の聲>(『平家物語』)の、次の次の次くらいには有名じゃないかと思います。『伊勢物語』は、古典の教科書にも取り上げられていますし、ご存じの方も多いと思います。
 さて、こんなによく知られた『伊勢物語』を、どうして「珍」として取り上げるのかと言うと、『伊勢物語』本体ではなく、享受のされ方が「珍」だからです。
 と言っても訳が分からないので、順を追って説明していきますね。

 まず、『伊勢物語』という作品ですが、これは10世紀半ば成立したと考えられています。だいたい、藤原氏摂関政治を始めだしたくらいですかね。内容は、主人公の恋愛遍歴を綴った約120段の短編からなる物語です。
 元々、『伊勢物語』の主人公は、「特定の誰」と決まっていたわけではなく、様々な人の様々な色恋話が集まったものでした。しかし鎌倉時代頃から、主人公=在原業平として統一されるようになってきます。
 この在原業平が、様々な女性と恋愛遍歴を重ねていくわけですが、特に藤原高子(=二条の后・清和天皇の女御)との身分違いの恋愛譚は、『伊勢物語』の中核を成しています。
 
……と、まぁ、ここまでは、学校の古典の授業で習います。
 ここから先が、中学・高校では絶対に教えてくれない、大人の『伊勢物語』講座なのです。(と、集客力が良さそうな事を言ってみる)

 『伊勢物語』本文はとても短く、細かい説明がほとんど無いため、『伊勢物語』を読み解くために、鎌倉時代〜室町前期にかけ、多くの注釈書が作られていくのです。つまり、
「『伊勢物語』は、きっと、裏に何か壮大な秘密を隠しているに違いない。それを解き明かさなくては!」
 という、今なら確実に「電波」呼ばわりされるような説が、たくさん中世に作られるのです。
 この「裏に何か壮大な秘密」というのが、艶釈……つまり、エロ解釈なんですね。
 しかも、この説は、室町後期頃まで世間の「一般常識」となっていました。今だからこそ「エロ親父の戯言」と思いますが、当時はきっと「ありがたい教え」だったんだと想像します。……多分。

 この鎌倉〜室町の奇天烈な『伊勢物語』の解釈を【古注】と呼び、室町中期〜江戸期に起きる【旧注】と区別しています。

 それでは、【古注】の素晴らしい世界をご紹介しましょう。
 【古注】の基本設定は、在原業平は「陰陽(男女関係)の神」とされ、多くの女性と関係を結ぶことで、女性を仏道に導いたとします。
 具体例を出しましょう。
(※訳はアバウトです。……大目に見て下さい。堪忍してください)
伊勢物語』本文
<七段>
 むかし、おとこありけり。京にありわびて、あづまにいきけるに、伊勢、おはりのあはひの海づらを行くに、浪のいと白く立つを見て、
 いとどしく過ぎゆくかたの恋ひしきにうら山しくもかへる浪かな
となむよめりける。
●現代適当語訳
<昔、ひとりの男がいた。
 都に居辛くなって、東国へ向かう途中、伊勢・尾張の海辺で、波がとても白く泡立っているのを見て、次のような歌を詠んだ。
「昔が懐かしく思い出される。波が羨ましい。波は帰ることができるのだから」>

 たったこれだけしかない短い本文に対して、【古注】の解釈はというと、
『冷泉流伊勢物語抄』
<七段>
 昔男有けり。京に有わびて、東の方へ行けるとは、実に有わびてあづまに行には非ず。二条の后をぬすみ奉る事あらはれて、東山の関白忠仁良房公の許に預けをかるるを云也。東といふ字に付てあづまといふ也。伊勢尾張のあわいとは、后と業平と二人のあはひ也。男女の契のおはりのあはひ也。あはひといふは、二人の交りなり。(中略)されば伊勢おはりのあわひとは、業平と后の契の終の交也。伊勢はゐんやうの義。(以下略)

●現代適当語訳
>「昔、ひとりの男がいた。都に居辛くなって東国へ行った」というのは、本当に東国へ向かったのではない。
 二条の后(=藤原高子)と駆け落ちしたのがバレて、(連れ戻された二条の后が)東山の関白良房公のもとへ預けられた事をいうのだ。東山の東をとって「あづま」と言ってるだけだ。
 「伊勢尾張のあわい」とは、二条の后と業平、2人の逢瀬のことだ。男女関係の終わりの逢瀬のことなのだ。
 「あはひ」というのは2人の肉体関係をいう。だから「伊勢尾張のあはひ」とは、業平と二条の后の最後の一夜を言うのだ。
 「伊勢」という字は男女関係の意味である>

 感心するくらい、ものすごい曲解です。行間を読みすぎて、在らぬ方向へ飛び去っているとしか思えません。

 今、引用した『冷泉流伊勢物語抄』は、【古注】の代表的な書物です。
 同じく【古注】の代表格、『和歌知顕集』の冒頭部分に、『伊勢物語』とはどういう書物なのかが、問答形式で書かれており、当時、『伊勢物語』がどういう風にとらえられていたのかが良く分かるので、掲載しておきます。
 
 『和歌知顕集』(伝・源経信
 鳥(とふ)、このものがたりをそこばくの大事として、かきあつめたる事は、なにの所詮かある。おぼつかなし
 風(こたふ)、この人は極楽世界の歌舞の菩薩、馬頭観音と申菩薩也。いま世中の衆生ありさまを御覧ずるに、いざなぎ、いざなみのみこと、あまのうきはしのしたにして、女神をがみとなり給しよりこのかた、いきとしいけるもの、いづれか男女のなからひをはなれたりける。(以下略)

●現代適当語訳
<Q、どうして『伊勢物語』は、こんなにも大事なものとして扱われてるんでしょう? 何か理由があるんですか? 私にはよく分からないのですが。
 A、在原業平はタダの人じゃないんだよ。実は極楽の菩薩、馬頭観音という仏なんだ!
世界中を見回してごらん。イザナギ尊・イザナミ尊が、天浮橋の下で夫婦となってからというもの、生きとし生けるもので、男女関係を離れられるものなど、ひとりもいないじゃないか!>

 な、なんだってー!?(MMR)の勢いです。「いきとしけるもの」に単細胞生物は入ってないのかよ、という問題は置いておいて。
 こんな調子で、【古注】は桃色街道を突っ走っていくのですが、室町後期の大天才・一条兼良が冷静なツッコミを入れることによって、【古注】の時代は終わり、【旧注】の時代がやってきます。

 『伊勢物語愚見抄』(一条兼良
 彼知顕集に、業平中将は馬頭観音小野小町如意輪観音の化身といへり。其外うろむなる事のみなり。これは、後世に色好みの人の此道のかたうどにせんために、経信卿の名をかりて擬作せるにやとぞおぼえ侍る。

●現代適当語訳
<あの『和歌知顕集』とかいう本には、業平は馬頭観音で、小野小町如意輪観音だとか書かれてある。
 だが、それもこれも証拠のないテキトーな話だ。
 あの書物は、後世のエロ親父が、自分の浮気の言い訳に使うために、源経信の名前を使って偽造した本だと思う>

 さすが関白を3回もこなし、自分で「ワシは菅原道真を超える天才だ!」と豪語していた兼良です。言うことが、身も蓋もありません。

 学校でこういう話をすれば、古典の苦手な生徒も食いついてくると思うんですが。
 え、ああ、私ですか?
 私は真面目な教育実習生だったんで、授業ではやってませんよ。
 「課外授業」と称して、いたいけな女子高生に不必要な知識を刷り込んでいただけです。

<参考資料>
堀内秀晃校正『竹取物語伊勢物語新日本古典文学大系岩波書店
片桐洋一『伊勢物語の研究〔資料篇〕』・明治書院
山本登朗『伊勢物語論 文体・主題・享受』笠間書院
武井和人『一条兼良の書誌的研究』おうふう