【珍の探求:其の2 『恵方は回るよどこまでも』】

2005-02-03

 恵方に向かって、巻きずしを無言のまま1本食べる。
 この風習って、近代に入ってから、関西で始まったことだとか。今は全国区に広まっているらしいですが、どうなんでしょうか。
 あと、どうでも良い話ですが、私はお新香の入った太巻きが好きです。ピンク色の甘ったるい田麩が入ってる海苔巻きは許し難い。寿司が甘いなんて!……本当にどうでも良い話です。
 私の家では昔、豆まき・寿司の他に、自分の年齢より1粒多い数の大豆を食べたり、鰯の頭を柊の枝にさして門に掲げることもしていました。別に古式ゆかしい訳ではなく、単に父親がイベント好きで、強制参加させられていただけですが。

 というわけで、節分です。なんとなく節分です。
 節分の起源を遡れば、「追儺(ついな)」という儀式に辿り着きます。
 今日は各地の寺社で追儺式が行われているので(見に行けば良かった…)、TVニュースなんかで目にする人も多いでしょう。
Wikipedia「追儺」



追儺(ついな)とは、旧暦の12月晦日(大晦日)の宮中の年中行事であり、平安時代の初期頃から行われている鬼払いの儀式。追儺とはもとは中国の行事であり、この行事が日本に輸入され、ついに宮廷の年中行事となった。
現在の節分の豆蒔きの元となった行事である。



 具体的にいうと、天皇を鬼から守るため、宮廷役人が方相氏(ほうそうし)と呼ばれる4つ目の面をつけ、槍を振り回しながら宮廷を駆けめぐる儀式です。
 「方相氏」でググっていただければ一発で分かるんですが、思わず「どっちが鬼やねん」と言いたくなるような格好をしています。時代が進み、天皇の私的な神事だった追儺が「節分」として民間に浸透した時には、方相氏自体が鬼に変化してしまい、今見るような「節分の鬼」となってしまったそうです。(『陰陽道の本』より)

 ところで、この追儺の儀式は、陰陽師※1主導のもと行われていました。陰陽師は中国の五行説にのっとった天文・暦・方角を司っており、恵方信仰と深く関わっています。
 恵方は毎年変わります。寿司を食べる向きも、毎年変わります。今年は西南西らしいので、食器棚と向き合って食べることになりそうです。(細かいことを言えば、「西南西」ではなく「西微西」)

Q、なぜ恵方は毎年変わるのですか?
A、回転しているから。これが本当の回転寿司。

 ああ、やめてください。豆を投げるのは。きちんと説明します。

 正しくは歳徳神(としとくじん)」が動いて(回転して)いるからです。この歳徳神のいる方角が「恵方」と呼ばれます。後で書きますが、むやみやたらと移動しているのではなく、一定のルールに従って動いています。
 歳徳神というのは、牛頭天王の后とされる道教の女神です。別名を「頗梨采女(はりさいにょ)」と言い、日本では「牛頭天王スサノオ」「頗梨采女クシナダヒメ」とされ、京都の八坂神社に祀られています。
 陰陽道の書物『ホキ内伝(ホキは外字)』※2には、牛頭天王頗梨采女の説話が載っているそうです(孫引きですいません)。それによると、

<天界の名君、牛頭天王は未だに独身だった。ある日、牛頭天王の元に、天帝の使者の青い鳥がやって来て言うことは、
「南海に住む竜王の娘・頗梨采女は、凄い美人らしいっすよ。彼女と結婚したらどうですかね?」
 喜んだ牛頭天王は、早速部下を引き連れて頗梨采女の待つ南海へ向かった。
 しかし遠い。とにかく南海は遠い。途中で人も馬も疲れ果て、動けなくなってしまった。そこで牛頭天王は「もう少し歩け。そうしたら梅林があるぞ!」とは言わず、素直に、立ち往生した国の支配者に助けを求めることにした。
 その国の王は巨旦将来(こたんしょうらい)というケチだったので、牛頭天王は宿を頼んだが断られてしまう。困った牛頭天王を助けたのは蘇民将来(そみんしょうらい)という、貧しい老人だった。蘇民将来は粟の飯を炊き、草の葉に盛って牛頭天王に差し出した。これに感動した牛頭天王は、蘇民将来へ沢山の謝礼を贈り、その国を後にする。
 そんなこんなで、何とか頗梨采女の元へ着いた牛頭天王は無事に結婚し、20年間で8人の王子をもうけた。
 牛頭天王は自分の国へ戻る時、息子達に巨旦将来の嫌がらせを語って聞かせた。息子達は怒り噴騰し、父の牛頭天王と力を合わせ、巨旦将来の城を攻め滅ぼした。20年の恐るべき執念である。
 牛頭天王蘇民将来をその国の王とし、言った。
「今から私と8人の王子達は、疫病を流行らせて諸国を攻めるが、蘇民将来の子孫であるならば攻めないでおこう」>

 一宿一飯の礼は凄まじいという話です。まぁ、いきなり王様になってしまった蘇民将来にしてみれば「あわわわわわわ」という感じでしょう。
(巨旦・蘇民の話はもっと古くから伝わっており、『ホキ内伝』に伝わっている話は、変形型と言えます)
 今でも寺社で「蘇民将来子孫」と書かれた呪符を配っているそうですが(私は実際に見たことない)、これは、自分が蘇民将来の子孫だと示すことで、疫神が家の中に入ってこないようにするためです。

 さて。長い話でしたが、このストーリーが暦神のベースとなっています。
 頗梨采女である歳徳神と、息子である8人の王子(太歳神・大将軍・太隠神・歳刑神歳破神歳殺神黄幡神豹尾神)、それに巨旦将来の怨念の化身とされる金神(こんじん)が、全方角に散らばっており、くるくる回っているのです。神によって方角に留まっている期間も違います。
(例:歳徳神・金神は1年単位で移動するが、大将軍は3年同じ方角に居座る)
 しかも名前から分かるように、歳徳神以外のほとんどが祟り神の性格を持っています。中世の貴族は、災いのある方角へ行く場合、いちいち「方違え(かたたがえ)」※3をしていました。
 特に強烈なのが金神※4で、金神のいる方角に無礼を働けば家の人間を7人殺すと言い、7人に満たない場合は牛馬も殺すと言われる強烈な祟り神とされています。
 常に金神は、歳徳神とは正反対の方向に位置します。なので、今年は歳徳神がいる西南西の逆、東北東に金神がいることになります。
 歳神については……私が勉強不足のため、また後日説明したいなと思います。
(意外と、「恵方」「金神」以外の歳神について述べているサイトが少ないようなので)

 話を方違え。
 歳徳神の居所、つまり恵方ですが、これの出し方を書いておきます。
 ネットを調べれば「今年の恵方」くらいすぐに分かるんですが、どうやって求めているかを……知りたい人だけ知っておいて下さい。(弱気)
 まず、今年は十二支十干で言うと何年でしょうか?
 十二支までなら「酉年」と答えられるでしょうが、十干まできちんと答えられる人は珍しいと思います。答えを言うと、今年は「乙酉(きのととり)」だそうです。私も知りませんでした。
Wikipedia「恵方」


歳徳神の在する方位(すなわち恵方)は、その年の十干によって下記のように決まる。
甲・己の年:寅と卯の間(甲の方、東微北)
乙・庚の年:申と酉の間(庚の方、西微南)
丙・辛・戊・癸の年:巳と午の間(丙の方、南微東)
丁・壬の年:亥と子の間(壬の方、北微西)



 今年は十干が「乙」なので、歳徳神がいるのは「庚の方角」となります。
 「西南西」ではなく「西南」と書くのは、西洋の方位は360度を12分割するのに対し、東洋は360度を24等分しており、非常に細かいことを言うと、「西南西」では少しズレが生じているわけです。
(参考Wikipedia「方位」

 今回も、エライ長くなってしまってすいません。ブログでやる長さじゃない気がしなくもない。

 ちなみに今日の巻きずし、ハズレっぽいです。

※1陰陽師」…古代日本の律令制度の官職のひとつ。「陰陽寮」に所属した。現代のイメージ「怪しい呪術を使う魔術師」ではなく、政府のちゃんとしたお役人。
 中国で発展した陰陽五行説は、星の運行をベースとしていたので、単なる呪術的な思想ではなく、天文学・地学・哲学など学術的にも進歩を遂げた。
 日本の陰陽寮には、占い・呪術を司る「陰陽師・陰陽博士」と、天体観測を仕事とした「天文博士」、天体の運行から暦を作る「暦博士(れきはかせ)」が所属していた。
 陰陽寮からは暦が発行され、そこには干支(今でいうカレンダー)の他に七曜(インドの暦)、歳位(方角)、吉凶などが記されていた。

※2「ホキ内伝」…鎌倉時代に作られた、陰陽道のテキスト。安倍晴明に仮託して書かれた。別名『金烏玉兎集』

※3「方違え」…今から行こうとしている場所に祟り神がいる場合、いったん知人の家など、別の方角へ移動して、そこから目的地へ向かった。
 ちなみに、方違えを理由にして女性の家に押しかけるケースもままあったようです。

※4「金神」…祟り神として畏れられていた金神を「天地金乃神」と呼び、偉大な神として祀りなおしたのが、教派神道金光教である。

<参考文献>
真弓常忠『祇園神と暦神』八坂神社
『ブックスエソテリカ 陰陽道の本』学習研究社
豊島泰国『日本呪術全書』原書房