【珍品:其の5 『東寺・夜叉神堂(雄夜叉・雌夜叉)』】

2005年5月22日

 京都・東寺の名宝展へ、フラフラと行ってきました。ええ、フラフラと。
 東寺(教王護国寺)は、高野山と双璧を成す真言密教の根本道場です。
 詳しくは、Wikipedia→東寺

 福神信仰を調べている時に出てきた、国宝「兜跋毘沙門天立像」が展示されているので、一度は見ておこうと思って行ったのですが……人、人、人。人だかり。
 なんなんですか、どこから涌いてきたんですか、この人間の量は。
「皆、そんなに毘沙門天が見たいのか?」
 と、思いましたが、なんてことありません。 ドンピシャで「弘法市」(毎月21日に開催される露店市)の日に当たっていただけでした。

 境内までビッシリとテントが詰まり、食べ物から、壺、古民具、壊れた玩具、どっから流れてきたのか分からない仏像や仏具なんかが並んでいる。物が多すぎて目が痛い。
 露店で買った唐揚げを一人で食べていると、「お姉ちゃん、唐揚げに塩かけへんー?」と声が飛んできたので振り返ってみると、岩塩を売っているおじさんでした。……と言うか、その小石みたいな岩塩は浴用だろうと。私を高血圧で殺す気か。
 あと、こんな物も売ってました。


何に使うのか分からない箱に山盛りの蓮殻。(1個200円)
 一時期、「精神的ブラクラ」として名を馳せた蓮画像ですが、種が入ってないだけで、こんなにもマシなんですね。密集系に弱い私でも大丈夫でした。

 ……違う。こんな事をしに行った訳じゃないんですよ。

 人の間を縫いながら何とか本堂で本尊を、宝物館で兜跋毘沙門天立像を見ました。毘沙門天は、えーと、ビックリするほど写真と一緒でした。イメージも、受けた印象も。何というか、「2次元と3次元がかなり一致する仏像」だということです。

 それよりも想像以上に驚いたのが、「夜叉神像(雄夜叉・雌夜叉)」です。
 巨大な建造物が建ち並ぶ東寺の中で、小さな夜叉神堂は本当に目立たない。喧噪から離れてひっそり立っているので、よく知らない人なら見落としてしまうかもしれない。


 しかしこの夜叉神像、知ってる人は良く知っている、有名な障礙神なのであります。つまり祟り神。
 半透明のガラスが嵌った格子から覗いてみると……怖。
 前噂には聞いていたものの、これは本当に怖い。怖いと言うか凄みがある。
 東寺の記録書『東宝記』によると、

古老伝云、東雄夜叉、本地文殊。西雌夜叉、本地虚空蔵。二夜叉倶大師御作也。或云。根本安大門左右。旅行中人不存礼之時、忽有其罰。故中門之左右安之云々。此説不審、可決之

 この雄雌夜叉像は、弘法大師空海の作と伝えられており、当初は東寺の南大門に祀られていた。しかし、門を通る者が礼を尽くさない時は、すぐに祟ったので、中門の左右に安置されることになった、と記されています。
 この中門は江戸時代に無くなり、現在のような堂が作られ、堂内に安置されることになったそうです。

 山本ひろ子氏によると、
  東寺夜叉神事
 大師御入定後、於西御堂授檜尾僧都給条々有之。摩多羅神其一也。大師云。此寺有奇神名夜叉神摩多羅神則是也。持者告吉凶神也。其形三面六臂。云云。
 彼三面者三天也。中面金色。左面白色。右面赤色也。中聖天。左ダ(外字)吉尼。右弁才也。(後略)『北院御室拾葉集』

 延暦十五年(七九六)に創建された東寺(教王護国寺)を空海が賜り、初代長者となたのは承和元年(八三四)。翌年没したため、長者は檜尾僧都実慧が引き継いだ。右(ここでは上)の記事は、その際に譲渡された夜叉神にまつわる所伝である。
 この寺には「夜叉神」と呼ばれる「三面六臂」の「奇神」が安置されている。それは「摩多羅神」で「吉凶ヲ告ル神」であると空海が語ったという。
 この夜叉神像とは、かつて東寺の中門に安置されていた金剛夜叉明王像で、摩多羅神とみなされているわけだ。なお三面を聖天、ダ吉尼天、弁才天とするのは三天を同一の尊格と観じて修する三天合行法によろう。

 山本ひろ子『異神』/筑摩書房 より抜粋

※12v電源が一部、改行、注記を加えさせて頂きました。

 うーん。
 原本である『北院御室拾葉集』に当たっていないので、まだよく分かりませんが、私が見る限り、中門の(現在は夜叉神堂にある)【雄雌夜叉像】は三面六臂ではありません。
 現段階で推測するに、
 『北院御室拾葉集』で書かれてある「夜叉像」は、中門の【雄雌夜叉像】ではなく、東寺講堂の【金剛夜叉立像(国宝)】の事ではないかと思いました。同じ平安期の仏像ですが、こっちは三面六臂ですし。

 何にせよ、東寺の夜叉信仰は興味深いです。
 個人的な感想としては、【雄雌夜叉像】は本来、「夜叉」ではなく、別物として作られた物ではなかろうかと。(ペアの鬼系彫刻と言えば、仁王像か、修験道の前鬼後鬼が思い浮かびます)
 初めに講堂の【金剛夜叉立像】への信仰が高まり、当時、人に祟るという曰くのあった【雄雌夜叉像】が、「人を食う」と言われる「夜叉」の名を冠ぜられたのではなかろうかと。

 しかし、『北院御室拾葉集』中の<奇神>という表記が気になります。
 三面六臂の【金剛夜叉立像】は確かに異形ではあるものの、夜叉像としては特別変わった様相でもないと思うんですが……。
 どうなんでしょうかね?